『とんち』でお馴染みの一休さんがいらっしゃった【臨済宗】という宗派には、【公案】という師匠が弟子に問題を出して弟子の成長を確認するためのやり取りがございます。
有名な問題で、【隻手の音声(せきしゅのおんじょう)】という江戸時代の禅僧【白隠(はくいん)和尚】が作られた問題があります。
この問題は、「【片手の拍手の音】はどんな音がするでしょうか?」という問題です。
片手の拍手とは一体どういうことでしょうか?
拍手は両手でないと打てません。
「そもそも右手、左手どちらから音が出ているのだろうか・・・」とお弟子さんが考えていると、お師匠さんに頭をパチンと叩かれます。
「これが片手の拍手の音だ!」とお師匠さんがおっしゃいました。
なかなか面白い問題ですよね。
この問題で何が伝えたいかというと、物事に捕らわれてはいけませんよ、拘ってはいけませんよ、ということです。
私達の真言宗にも同じように【論議】という師匠が弟子に問題を出して成長を確認するやり取りがあります。
【絵木法然(えもくほうねん)】という問題には、『職人さんが絵に描いた仏様や、木を削って造られた仏像は本当に仏様であるか?』という問題があります。
どういうことかというと、例えば【不動明王】と呼ばれるお不動さんは、お経の中に、【身体が青黒い】【火炎をまとっていて怖い顔をしている】【剣と縄を持っていて左側に髪が垂れている】など、色んな特徴が書かれています。
しかし、実際には誰もその姿を見たことがある人はいません。
つまり、今ある仏様の絵や木で作られた仏様は【職人さんが作った姿】でございます。
では、この仮の姿の仏様は本当に仏様なのか?という問題です。
この問題で伝えたいことは、私達は紙の絵や、木に手を合わせているわけではなく、その先の仏様の本質に手を合わせている、ということです。
ですので、仮の姿であっても【仏様】であるということになります。
私が小さい頃、「亡くなったおばあちゃんの魂はどこに行ったんだろう・・・」と考えたことがあります。
あの世と呼ばれる世界にあるのか・・・それともお墓にあるのか・・・あるいは位牌に宿るのか・・・。しかし仏教ではこういったことに拘ってはいけませんよ、捕らわれてはいけませんよ、と教えています。
私たちはお墓の石や位牌の木に手を合わせるのではなく、その先の故人様に手を合わせているのですから、ご自宅の仏壇で手を合わせればご自宅に、お墓で手を合わせればお墓に故人様がいらっしゃるのです。
昔、【千の風になって】という秋川雅史さんの歌が有名になりました。
この歌の二番目の歌詞には『私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。死んでなんかいません。』とあります。
これは《お墓だけではなく、いつもあなたのそばにいるよ》と表現しているように聞こえます。
亡くなった方はどこか遠い存在に感じてしまいますが本当は近くにいらっしゃって優しく見守ってくださっているのです。